省みること

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「100の思考実験」 紀伊國屋書店 より

ダーラ・ガプタは生まれてこのかた、インドのラージャスターン砂漠のオアシス都市、ジャイサルメール近くの村で暮らしていた。

1822年のある日、夕食の支度をしていると、騒がしい物音か聞こえてきた。顔を上げると、いとこのマハビーが2年間の旅から戻ったところだった。マハビーは元気そうで、夕食のあと、家族にいろいろな冒険譚を語って聞かせてくれた。
盗賊のこと、野生動物のこと、高い山のこと、そして、信じがたいような景色や、心躍る体験、しかし、ダーラが心底驚いたのは、「氷」と呼ばれるものを見た、というマハビーの言葉だった。「すごい寒い地域に行くと、水は流れるのをやめて、固い半透明のかたまりになるんだ。もっとびっくりするのは、液体と固体の中間という状態がないことさ。それに、流れている水は、固まったものより少し温度が高いんだ」
ダーラは、家族の前でいとこに異を唱えたくなかったが、その話を信じはしなかった。いとこの話は、今まで自分の経験すべてと矛盾していた。これまで、火を吐く竜の話を旅人たちから聞いたときも信じなかった。だから、今回の氷についての荒唐無稽な話も信じられるはずがない。自分はそんなものを信じるほど愚かではない、と思っていたし、それは正しかった。
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ダーラが下した、氷の存在を「そんなもの」とした判断は、もしかすると、わたしが日々下している科学に依った判断に等しいのではないだろうか。
 
例えば、
語られた狐に騙された話を、科学の仕切りで判断すれば、
それは幻覚を見たのだろう、あるいは、酔った帰り道に道端で寝込んだ夢だろう、
となる。
が、しかし、狐に騙されたことは経験された事実として在ったことなのだから、
科学という一刀で事を片付けてしまうことは、その事実から得られるだろう何かを逃していることなのだ。
 

蓮如上人 御文

夫(それ)人間の浮生(ふじよう)なる相をつらつら観ずるに
おおよそはかなきものは この世の始中終
まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり
されば いまだ万歳(まんざい)の人身をうけたりという事をきかず
一生すぎやすし
いまにいたりて たれか百年の形躰をたもつべきや
我やさき 人やさき
けふともしらず あすともしらず おくれさきだつ人は
もとのしずくすえの露よりもしげしといえり
されば朝(あした)には紅顔ありて 夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり
すでに無常の風きたりぬれば
すなわち ふたつのまなこたちまちにとじ
ひとつのいき ながくたえぬれば
紅顔むなしく変じて 桃李のよそおいをうしないぬるときは
六親眷属あつまりて なげきかなしめども
更にその甲斐あるべからず
さてしも あるべき事ならねはとて
野外におくりて 夜半のけむりとなしはてぬれば
ただ白骨のみぞのこれり
あはれというも中々おろかなり
されば人間のはかなき事は 老少不定のさかいなれば
たれの人も はやく後生の一大事を心にかけて
阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて
念佛もうすべきものなり あなかしこ あなかしこ

 

 

大学時代に所属したサークルの後輩の訃報が届いた、

ひとたび無常の風が吹けば、命とははかないものである。

誰もが自分に明日の日がないなどとは思っていない。

日常にはいろいろと解決せねばならぬ、小事、大事が次々とおこる。

が、なにをさしおいても解決せねばならぬのは、「後生の一大事」である。

500年前、蓮如上人は一刻も早くこのことに気がつけと、御文を綴った。

どれだけ科学が発達してもこの理は変わることはない。

 

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