尖閣諸島争議を慮る

ブッダは煩悩のひとつとして瞋恚(怒り)を特に戒めました。

20世紀の初めごろ、デンマーク陸軍大将が、こんな法律があれば、戦争をなくせると考えて起草した法案がある。題して「戦争絶滅受合法案」。

戦争の開始から10時間以内に、敵の砲火が飛ぶ最前線に一兵卒を送り込む。順序はまず国家元首、次にその親族の男性、三番目には総理国務大臣、各省の次官、そして国会議員(戦争に反対した議員を除く)、戦争に反対しなかった宗教界の指導者・・・・。

妻や娘は従軍看護師として招集し、最前線の野戦病院で働く。権力を持つ者から犠牲になるなら、自らは安全地帯にいてナショナリズムをあおる政治家は姿を消すだろう。

思想家内田樹さんは戦争を車の運転に例える。政府は「行き先」を決め、将軍たちは「運転」をする。「国民」の任務は「憎悪と敵意」をエネルギー源として、「戦争機械」に供給することだという(『ためらいの倫理学』)。

その「憎悪と敵意が」高い水位まで満ちてきた感がある。尖閣諸島国有化に抗議する反日デモが、過去最大規模で中国全土に広がった。一部は暴徒化し日系企業を破壊。上海では、日本人が相次いで暴行を受けた。中国にいる日本人は不安でたまらないだろう。「戦争も辞さない」と書いた横断幕が掲げられていたのが目を引いた。小さな無人島領有をめぐって、戦争を始めるほど、両国政府も国民も愚かではない。

中日新聞 中日春秋】

文末に「と信じたい」がついてしまいます。

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リニア中央新幹線

谷川俊太郎
新幹線ひかり号に乗って米原付近通過のおりに作られた詩がある。

   「急ぐ」
こんなに急いでいいのだろうか
田植えする人々の上を
時速二百キロで通りすぎ
私には彼らの手が見えない
心を思いやる暇がない
(だから手にも心にも形容詞はつかない)
この速度は早すぎて間が抜けている
苦しみも怒りも不公平も絶望も
すべて流れてゆく風景
こんなに急いでいいのだろうか
私の体は速達小包
私の心は消印された切手
しかもなお間にあわない
急いでも急いでも間にあわない


リニア中央新幹線が具体化されそうである。
時速500キロで東京、大阪間が1時間で移動できるそうだ。
もっと速く、もっと快適に、もっと、もっと・・・・
このもっとには「貪」が隠れているように思えてならない。
東日本大震災によっておこっている原発事故も
わたしのもっともっとが招いたのではないのだろうか。
頭脳と時間とお金をつかって
いま、やらなければならないことは
時速500キロの夢の超特急の開発ではない。
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アンダーグラウンド

日本社会を震撼させた地下鉄サリン事件。連日、膨大な事件に関する報道がなされた。しかし、事件がなにであったのか少しでも分かることができたのであろうか。報道は興味本位でオウム真理教の教義と松本智津夫や幹部信者がいかに異常であるかを畏怖させあるいは嘲笑的に描くだけで、核心の表面にも近づいていないのではないか。そして私たちは彼らは自分たち一般人とは違う別種の人間であるという落ちをつけることでこころの安寧を得ただけなのではないのだろうか。そうして、16年の歳月がその安寧の固定化を是とし、なにもわからないまま事件は忘れさられようとしている。凶悪な事件の核心は加害者や被害者が自分と同じ人間であることから逃げてはみえてこない。本書は被害者側から事件を記述したルポである。被害者が自分とおなじ人間であることに立脚して事件を考えてみなければいけない。
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読書の片手には「ヨムメモ」

読書をしていて、書き残したい文章があったり、
印象に残ったことを書き留めたりしたくなったときどうしてますか? 
本の隅を折ったり、付箋をつけたり、いままで、
あれこれとやっていましたがどうもシックリきませんでした。
ところが、この悩みをいっきに解決してくれる
iphoneアプリ+読書管理ホームページを発見しました。
それは「ヨムメモ」です。
読書の片手にはいつもiphoneを、
それで、気にとまったページはその場所を
「ヨムメモ」アプリで頁数だけを入力
(例えば、35頁の3 段落目なら、35.5)しておく。
短い書き留めならメモ欄に入力してもいい、
それで、後でパソコンで書き抜きなり、感想なりを入力。
いや〜これは、涙がでるほど使えます。
これで、あなたの読書スタイルが革命的に変わりますよ!
http://yomuxmemo.com/user/2664

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一には功の多少を計り彼の来処を量る

もう数ヶ月前になりますが、
漁船が転覆し、漁師、数名が亡くなり、数名が奇跡的に
助かった事故が、大きく新聞、報道に取り上げられました。

私は今年の2月から、縁があった禅寺で、日曜日の朝の参禅を始めました。
そこでは、参禅が終わったあと、食事を頂きます。
禅宗では、食事の前に五つの偈(五観の偈)を唱和します。
その1番目が「一には功の多少を計り彼の来処を量る」です。
参禅を始めた以前も、食べ物はつくった人の苦労があるから、
残してはもったいないという気持ちはありました。
五観の偈には、それよりも
遙かにひろく、ふかい、おもいが
ことばとして表現されていることを知りました。

第1番目の、
「一には功の多少を計り彼の来処を量る」とは、
その食物を造ってくれたひと、捕ってくれた人、
そして、それを運んでくれた人、
流通に関わった人、
調理してくれた人、
調理場から食卓まで運んでくれた人、
それらの人々の功をおもい計り、
それほどのとおくから、
ようやく、わたしの口にまで届いたことを
量れというのです。
まさに、そのとおりで、
刺身一切れをよくよくおもえば、
まず、命をかけてそれを捕ってくれた人があり、
わたしの口に到達するまでの、延々としたわけがあるのです。
食物とは、それほどの、人の手と、時間、空間をかけて
ようやく口にはいるものなのだから、
粗末にしてはならぬというのです。

さて、そんなことにおもいをはせると
昨今の食物に対する姿勢、
これは、どこか間違っているのではないでしょうか。
漁師の事故と、仏教の教えから、
そんなことを感じました。
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